昭和49年7月14日 朝の御理解
●②、⑦、⑬
立教神伝、一番(?)のところ、立教神伝。
立教神伝の、おぉ一番最後のところを、ね、「世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ」と「神も助かり氏子も立ち行く」というところがありましょ、そこんところ、そこんところを頂きました。
立教神伝の中から、「世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ、神も助かり、氏子も立ち行く、氏子あっての神、神あっての氏子、繁盛いたし、末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く」。
●⑬取次ぎ助けてやってくれと、世間にはなんぼうの難儀な氏子がある、病気で苦しんでおる氏子、貧乏のために、それこそ火の車に乗っておるような、あぁ、苦しみのしておる氏子、人間関係にもう死んだ方がましというほどしの、苦しみを味合うておる氏子達、そういう氏子達の難儀をです、金光大神の取次ぎによって、お前のような実意丁寧神信心えおする氏子が、どうでも取次ぎ助けてやってくれないかというこれは神頼みなんですね、だから今あの申しますように、ね、例えば貧乏とか争いとか、ね、争い、人間関係、とか、あ~、貧乏とかというそういう、苦しみから脱却出来れる、信心、ね、そこから抜けれる、おかげを、教えてくれ、助けてやってくれということだと思うんです、ね、神様のご覧になる、例えばもう世間の、をぉなんぼうも難儀な氏子あり、その難儀な氏子と言うのがです、ただ貧乏だけは逃れて金持ちになったばってん、(?)といったようなことじゃ、神様の願いが聞き届けられないことでしょうが、ね、ですから神様が難儀と思うておられる、世の中から、ね、貧乏と病気と、言わば争いとを、取り除くおかげを、頂かせてやってくれということなんです、ですから教祖様が取次ぎ教えて下さる御教えは、もうそのことばっかりなのです、一部分が助かっただけではいけんのだ、いわゆる足ろうた、言うならそういう助かりを、天地乃親神様が願っておられる、ね、だからそういうおかげを取次ぎ助けてやってくれとおっしゃる、ね、病気をしておる人が病気が助かった、おかげを頂いた、それでも貧乏しござる、家の方では争いが絶えない、それでは助けてやるということに、助けるということにならないでしょう、いや世間になんぼうもおる難儀な氏子が、こういう三つの大きな苦しみに、喘いでおる、そういう、元を払うて下さる、そういう元を、(?)から、そういう難儀から、ね、脱却出けれる道、と御理解100節にあるようにです、ね、いわゆる子孫繁盛家繁盛の道、そういう道を教えて取次ぎ助けの、働きを金光大神はして下さるわけなのですから、私共も取次ぎを頂いてそういうおかげの頂けれる信心を、だから目指さなければならないということになりますですね。●
●②昨日、土居の久富さんが、お知らせを頂いておられますのに、常持まで来たと、それでそこで、お茶畑を作ろう、お茶の木を植えようという、お知らせを頂くんです、常持と言やぁ、言わば合楽の次の停留所、もう合楽はそこに見えておる、ね、それでは勇さんいかんじゃないか、ね、そこまでのおかげじゃいけんじゃないか、もう合楽がそこに見えてるんだから、合楽まで到着しなければ、合楽ということは、神も助かり氏子も立ち行くようなところなんですね、氏子繁盛いたし、末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行くということにならないじゃないか、いつも合楽のいわれを、皆さんが聞かれる通り、ね、言うならば私が善導寺でお導きを頂いた、そしてこの合楽に、動輪さして頂くまでの、バスの停留所の名前が、ね、善導寺、そして勿体島、椛目、常持、合楽と、だからこの合楽のおかげを頂くということがです、言わばそういう、まあ、三大苦とでも申しましょう、ね、貧乏から逃れられる、病気を、から、の根が絶ってしまうほどしのおかげ、ね、争いのない世界、それが合楽なんです、段々信心の稽古をさして頂いてです、例えばなら勇さん、勇さん達が明日ご夫婦で、ね、もうそれこそ医者にでもかけたら、どんなに言われるか分からないほどしの、言うなら大病です、二人共、体が動かんと言うのだからあなた、ね、奥さんの場合なんかでももうそれこそ、それこそ腹の中のどこがあんなに苦しい元であるか分からないのです、もうそれこそ一晩中苦しみ続けられることが、ちょいちょいあるのです、それでもさあお参りということになってくると、朝、体の不自由ながらも、手と足はまあどうやらこうやら、ですから、自動車で夫婦でお参りなるのです、だから夫婦の者がうんなら、健康のおかげを頂いて、自分の御用であるところの百姓がまた元通り出来るようになって、ただこげな有り難かこつはなかと言うておるのが常持までなんです、ね、善導を頂いた、善い導きを頂いた、信心の有り難い勿体無いが分かるようになった、いよいよ信心の喜びは、椛目、心に花を咲かせるおかげが頂けてきた、しかもこれを持ち続けてさえおれば、有り難いんだ、おかげは頂かれるんだ、言うなら極楽の世界はそこであろうけれども、極楽の世界に住んだだけではいけないのだ、そこからが金光教の信心なんです、ね、極楽の世界に住めてから、いよいよ、ね、昨日から私が申しておりますように、このように、自分の頂いておるそのおかげを、宣伝して回る、ね、金光様の信心をすりゃこういうおかげが受けられるという、世の中になんぼうも難儀な氏子あり取次ぎ助けてやってくれという働きを、おかげを頂いた私共が成して行かなければいけんです、合楽がそこに見えておるのに、言わばお茶畑を作るということは、一服するということだと思う、合楽がもうすぐそこに見えておるのに、合楽までは到達せずに、だからそこまでで、だいたい極楽っち言や極楽ですね、心に喜びの花が咲いて、有り難い勿体無いで生活が出来よるのですから、だけんそれだけでは、その氏子だけの助かりなんです、神様の願いとしては世間になんぼうも難儀な氏子あり取次ぎ助けてやってくれと、だからそういう助かりを頂いた氏子が、ね、また実意丁寧に、ね、合楽の、おかげを説いて行かなければならん、合楽のおかげというのは、ね、今言う、貧乏のない世界、病気のない世界、争いのない世界、例えば、病気のない世界と言うぅ、ことはね、えぇ、例えばなら私は糖尿病という病気です、けれども、なら私は糖尿病という名の神様のご都合だと頂いてるんです、だから仇じゃなか、疎かじゃなか、有り難いと受けておるわけなんです、だからもう病気じゃない、神様のご都合だと、そういう頂き方、また事実です、ね、何十年間家族中何人の者は、薬一本頂かないのですから、ね、本当に健康そのものですから、ね、そりゃそりゃ頭が痛か、風邪のひいたようなごとあるけれども、御神米お神酒さんで、おかげを頂く、頂いてきたんですから、ね、けれども、私あの五つの願いをさして頂くようになってから、あれほど、びょっ、あの風邪を最近しとったのが、もういっすっ、もう、(?)ひいたことないです私は、ね、だから本当にもうこれで病気の根、根が切れたというようなです、ね、病気災難の根は、根の切れるまでと、教祖が仰るのですから、やはりそういうおかげを頂いて行くということ、ね、だからそういうなら病気の人が、おかげを頂いて、本当に神様っちゃ有り難か、金光様の信心ちゃ有り難か、この病気のおかげで信心が色々分からしてもろうて、有り難い勿体無いでいつも心の中に信心の喜びを持っておるというだけでは、常持にお茶の木植えるようなもんなんだ、それを常に持ちつつね、その心の喜びを持ち続けて常持まで来て、もう合楽はそこに見えておるのだから、合楽まで行かにゃきゃいけんです、それが金光教の信心を頂く者の、言うならばおかげを受けて伝える責任がある、ね、そこにうんなら、言わば、ここで教えられる、ね、神様も助かって、(?)を下さる、私共も身が助かっていく、末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く道が、開かれてくる、ね、神も助かり氏子も立ち行くという、神も助かり氏子も立ち行くというところにです、おかげの焦点が置かれなきゃならんのです、ね、そのおかげをです、そんなら、誇大、ね、針小棒大に言うこともなんもいらん、なら皆さんがおかげを受けておるその受けておることを、言うならばとてもこの薬は良く効いたと、能書きにはこげん書いてあるけれども、いっちょん効かじゃったというのじゃなくて、もうそれこそ能書き以上のおかげです、合楽のおかげは、ね、ですからそういう、ならおかげをです、ね、宣伝するということがそのまま、神様も立ち行って下さることであり、神様も喜んで下さることであり、尚更、私共はいよいよ立ち行く道が開かれて来ることになるのです。
●⑦私は最近金光教はね、言うならば、社会を浄化して行く宗教だと思うです、ね、どうもこの頃は、世の中が狂ってる、転変地変なんかでも今までとは違った、感じ、ね、人間世界においても、もう悪やら善やらの境がつかんような混沌とした時代、ね、ここにです、言わば社会浄化に、言わば、立ち上がらなければならない、私共、信心者の願い、それをここでは、和賀心時代を創ろうとこう言ってるわけなんです、ね、だから金光教はね本当に社会浄化のためにある宗教です、いよいよ社会に合楽を現して行くという、ことをです、皆さんが、(?)をもっとうとしての信心にね、ならして頂く、ためには、今日は、立教神伝の最後のところから、ついて頂きましたように、ね、神も助かり、いわゆる私共が助かったと言うただけじゃいけん、常持までじゃいけん、そこに合楽は見えておるのだから、合楽までおかげを頂くということがです、言うならば合楽で頂いておるおかげを、皆さんの家庭でも本当に現して、それを世間にも、言うならば宣伝をして行く、それが世間をそれだけ清めて行くことになるのだ、はぁ大変なこと、そげな大きなことということないです、ね、教主様の、この元旦の、おぉ、お話の中にもございましたように、ね、「自分の庭先を綺麗にするということは、世界を清めるということだ」と仰っておられますです、ね、私共が助かって、それが隣にそれが伝わって行くと言うことはです、もう言うならば、世界の一部を清め、清めたことになるのです、それに例えば自分方さえ良かれ良かと言うてから、向こうさんはねくる奴とおる、ゴミば、まあなるほど自分方(?)まで清まっておる、ばってん返って他所には迷惑んかかっとるというようなことでは、世界を清めるということには繋がらない、そういう心掛けで信心をする、まずは自分が助かるということは、自分の前を清めること、なら自分だけ助かったけんもうこれで良い、もう常持までで良かといったようなことではなくて、ね、それを合楽までもう一歩信心を、伸ばすということが、神の願いを受けて立たしてもらう信心、言うならば、神様と氏子とが、手に手を取り合わんばかりにして、喜び合えれる合楽の世界がそこにある、ね、氏子助かってくれたおかげでまたその助かりが、言わば、世界を清めて行く、世界の助かって行くことに繋がるほどしの、ことを、私はこの立教神伝の最後のところには、入れてある、取次ぎ助けてやってくれという、助かるということは、ただ金に不自由せんようになりました、病気が治りました、おかげで家庭が円満になりましただけのものではなくて、ね、勿論そのおかげを頂くということを、社会からそういう三大苦というような、苦しみというものを、取り除かして頂けれるほどしの威力を持っておるのが金光教なのだ、取次ぎの働きなんだ、ね、だからそういうおかげを頂いて、それを、ね、人にも伝えさしてもらう、言うならば、ね、十分宣伝が出来るおかげを頂きたい。●
昨日から頂いておりますように、ん~、例えば、えぇ、此方の行は火や水の行ではない、家業の行だと、いう事について、火や水の行という事について、言わばあられもない修行を、ね、一通り一遍ぐらいはさしてもらうことも有り難い、けれども、私共も様々な修行さしてもらったけれども、もうこのおかげば頂かんならんからと言うて、したことは一遍もなかった、ね、それこそ生神金光大神ば芯から根から、もう唱えたいばっかりで、表行もさしてもろうた、断食もした水行もした、ね、けれども、それを私は、スキッともう、なら今、あぁ、ね、もうここ十何年間、そういう修行は致しません、ただ家業の行、自分の頂いておるこの、ならお取次ぎならお取次ぎというその御用にいよいよ専念さしてもらう、疎漏があってはならない、隙があってはならないということに、特に最近は、ん~、思わせて頂いて、けれども人間ですから、時々その失敗があります、昨日もまた、ちょっと(?)がってから、( ? )、もう目が覚めた時には11時過ぎとる、こりゃちょっと昨日ばっかりは驚いた、もう親先生いつも失敗しござると思うでしょう、昨日も私は失敗した話でしたから、昨日も11時過ぎじゃった、ね、それでもやっぱり、なら紋付袴つけてここに出て来る、お礼をさしてもらう、そしたら電話がジャンジャンジャンジャンかかってくる、11時過ぎに、やぁ~今日の遅うなったつ、これもやっぱおかげじゃったなぁと私は思うたんです、ね、もう一つおかげを頂いて、いわゆる、合楽の世界には、もうそげな火や水の行は、あってはならない、なしや極楽にあなたそげな、火の行てん水の行てんあるはずはなかじゃないの、そりゃ地獄ですよ、ね、ですから、火の行やら水の行やらという行はです、から卒業して、もう本当に神様が、本気で求めて下さるその事をです、求めて下さる修行を徹底して頂き貫くすということに、変えてしまわなければいけんです、ね、●②その事を私は今日もあのお願いさしてもらいよったらね、あれは、何とかライオン、っち言うちからあの、歯磨きの宣伝じゃないじゃった、テレビでやってるです、こんな大きな漫画でこんな力のこうした、あの鬼のごたる力の人が画面いっぱいにこうこう出て来るところがありますよ、それを頂くんです、ね、言うならば、なるほど例えば表行、修っ、火の行水の行をするとね、その時一時は非常に力が付くです、ね、けれども火の行水の行を止めるとストッとその力というものは、それこそ、テレビのその宣伝じゃないばってん、消えてなくなるです、不思議です、ね、いわゆる、(ビョウジャ風?)な信心ではいけんです、はらっ、山で修行をしてくる、そすとやっぱどんどん人が助かる、ね、これが段々助からんごつなってくる、そすとまた山に登らにゃならん、そういう修行はもう、止めにゃいけんですだから、ね、それよりかです、神様が確かに私に求めてござるという修行、神様が私に求め給う修行、そのそれをです、もう本気で、疎かにせずに、頂いて行くこと以外にはないです、金光様のご信心は、ね、●、そういう言うならば、成り行きをいよいよ尊ばせて頂く、信心全てのことに御の字を付けて行く信心からです、ね、いよいよ自分の言わば、人が助かるということはという、み教えを、あぁ教祖様がお言葉の中にも仰っておられますが、人が助かるということは、人間がそのまま助かるということだと、私は申しておりますね、だから人間が助かるということはです、それこそ成り行きの中にどういう難儀な問題が起きてもです、それを有り難く受けて行けれるということが、人間が助かってるからです、豊かな大きな心で頂けるということは、人間が助かっておるからなんです、そういう助かりを求めて、しかもその助かりが自分だけの助かりに止まらずにです、常持からもう一歩前進して合楽に向かわしてもらう、合楽の信心をいよいよ、現して行けるだけの信心を皆さん一つ頂かなければならないと思います。
どうぞ。
入力者:誠輝